自分、最初中村さん(仮)って書いてるのに後で山田さん(仮)に変わってるじゃないか・・・気がつかなかった・・・まぁいいか(苦笑)
二日くらい前でしょうか?4年くらい前の曲のことを思い出したのです。ちょっとあ、これならこういう曲があった、と思うようなことがありまして。個人サイトの方にちょびちょび書いてるので詳しくは割愛でしますが、自分の書く音楽にかなり迷いがあった時期、自信がなかった時期の作品だったのですがそいつにちょっと手にを加えてみて。
迷いとか自信のなさを埋める為に重ねた音を無駄だと判断してそれを削る、とか、
逆にその時、いくら頑張っても埋められかった音(間奏)をすんなりと埋める、とか。
なんとなく、いまいち納得出来ないままずっと置いていたものを一応形にしてみたらいろいろ考えることもあって。自分で迷っていたりいまいち自信を持てなかったってほどこれはアカン曲でもないのかな?というか。どこかから浮かんできて、自分でも綺麗かもしれないと思えた旋律がやっぱり曲の根幹にはあるわけですが、それにただ、自信とベクトル、想いのようなものを確固ともてなかった”揺れ”のようなものが自分に”う~んなだか・・・”と思わせていた一番の原因なのではないかしらと。
どこかで書いたかもしれませんが、自分では誰かが自分の曲を聴いてくれてそれをどう感じてくれるかっていうのはやはり書き手故、分からない所です。
けれど、昔にしろ今にしろその時々の未熟さは未熟さとしても自分の音を自分なりに信じて、必要のないもので飾らず、必要なものだけを与える。また、そういうものを曲に与えられる必要十分な力-それは作・編曲に必要な感性とか音楽の蓄積・語彙やら、時には理論的な知識だったり、楽器演奏の力であることもあるかもしれないです-を自分で必要なだけ身につけてゆくということは大切だなと。そうしたら数年越しとかにこうやって当時出来なかったことを少し楽曲に添えてすっきりする時もあったりするのかもしれません。気の長い話ですが。
自信と傲慢は似て非なるものだし、謙虚と卑屈もまた違う。その狭間というかバランスの中であるとき気づいたら以前より幾ばくか前に進めている自分に気付ければ悪くないのではないかなと。理想論的かもしれませんが、それなりに音楽やっててそういうのは素敵なことではあるかもしれません。
tackでした。
PR